追悼文集


恩師朝倉先生を偲んで
鹿児島大学脳神経外科同門会
会長 上津原 甲一 先生

 平成26年9月14日朝倉先生が死去された。
 奥様より急変との電話を頂き、厚地先生と二人で、臨終の床に駆けつけましたが、昨日の苦渋の表情とは打って変わって実に穏やかな表情でした。当日の朝、奥様に“いろいろと世話になった。”と告げられたとの事で、これが最後の言葉だったようです。
 まさに巨星墜つ。先生との出来事が走馬灯のように頭を過りました。先生との長い付き合いの初めは、昭和43年インターンを終え、当時神経精神科の助教授であった朝倉先生に脳神経外科を専攻したいと入局の相談に行った時でした。先生より“脳神経外科では飯が食えないのでやめなさいといわれ、翌日もう一度やはりやりたいと頼みに行くと、“飯は食わせてあげるが、贅沢は出来ないよ。” との条件で、弟子入りをさせて頂きました。それから46年の経過が過ぎてこの日を迎えた事になります。辛い別れでした。
 昭和44年、入局の翌年、朝倉先生から“東京女子医大に脳神経センターを開設するとの事で、そちらに自分は招聘されて行くが、君はどうするか”と聞かれ、即座に一緒に連れて行ってくださいと頼みました。其の夜は遅くまで飲み語り明かし、もう鹿児島に帰ってくることもないだろうとの思いが固まった時でした。 昭和44年から東京女子医大での脳神経外科の研鑽が始まりました。朝倉先生を慕って鹿大の卒業生が集まり、5名人局していました。
ところが昭和50年3月母校の鹿児島大学医学部に脳神経外科教室が開設され、その初代教授に朝倉先生が就任される事になり、私も帰鹿させて頂きました。帰鹿後の先生の活躍は皆様ご存知のように、素晴らしい業績を残されました。朝倉先生の赴任当時、鹿児島の脳神経外科施設は市内に2〜 3件しかなく、郡部は皆無でした。脳神経外科開設後は、次々と専門医を育てながら、脳神経外科施設を新設して行き、定年時には27の関連施設が新設されていました。まさに城造りの妙で、数多くの学会を開催し、研究、教育の傍ら、城主を育て城を造る.教授ならではの手腕で、ここで初めて鹿児島に於ける脳神経外科の地域医療が整いをみせており、住民への貢献はいかばかりかと推測されます。

 私が先生から教わった事が二つあります。一つは原著の重要さで、頂いた中の1冊が「フルトンの神経生理学Jで私に学問の楽しさを教えてくれバイブルともなりました。もう1冊はアレキシス・カレルの「人間一この未知なるものー」で時折読み返し、生涯の糧としていました。学生にこの本を読むように薦めたりしていましたが、この話を聞かれたのか1冊の本を頂いた。 当時絶版となっていたカレルの「人生の考察」 で、得難い欲しい本で嬉しいと同時に朝倉先生の洞察に恐れをなした程でした。この3冊は私の書棚に今も大事に並んでいます。
もう一つはゴルフで、朝倉先生はプロフェッサーと呼ばれるよりゴルフェッサーと呼ばれるのが好きで、退官したら「ゴ‘ルフ教室を開く」が口癖でした。平成9年に退官されましたが、退官されて暫くして高牧カントリークラブの三角理事長とお二人で、私の当時勤務している鹿児島市立病院に訪ねて来てくださいました。恐る恐る話を伺うと、メンバーになりなさいとの事で、一度は丁重にお断りしましたが、2度目においでいただいた時はさすがに断れず、入会させていただきました。また年数回の市立病院のコンペには夜の懇親会を含めて殆ど皆勤で出席して頂きました(写真はその当時のーコマです)。数年前より脚が弱られゴルフが出来なくなり、懇親会だけ出席して頂いておりましたが、透析を始められそれも叶わなくなり寂しい思いをしておりました。

 昨年の11月16日の「朝倉先生を偲ぶ会」には遠く北海道を始めとして全国各地から200人を超える人の参列を頂き開催者の一人として心よりこの場を借りてお礼を申し上げます。
 夢を語り人を創り、地域を語り城を造る。まさに変幻自在の采配で、これほどの人物は暫くは世に出ないと思われる。と共に先生を支えてこられ、最後の3ヶ月の入院生活では1日も欠かせず唯一人で介護された奥様に頭の下がる思いで、今は唯人生の大半をご一緒出来た事を感謝し、ご冥福を祈りたい。合掌